山男とじょっぱり女、ときどき、あやしい孫③

独特の感性と芸術性の高い文章力によりSNS等で話題の文筆家「伊藤亜和さん」によるオリジナルコラムです。

同居されている祖父母様との日常を甘辛な文章で紡いでいきます。

今回は祖母である”ばあちゃん”とお金に関するお話です。

それではどうぞ。

前回のお話はこちら

山男とじょっぱり女、ときどき、あやしい孫 ③

うちはお金が無い

 

それが祖母の口癖だった。

 

私がなにかを欲しがったとき、なにかを習いたがったとき、祖母は決まってこれを言った。

それでも、今私がこうして大学卒業して定職にもつかず、長いあいだ安くはない趣味を学生の頃から続けていられるのは、間違いなく祖母のおかげでもある。

お金がないと聞かされ続けたわりに、ごく普通に暮らしていくことでさえままならない状況にあるこの国のなかでも、我が家は特段困窮しているようにも見えない。

その様子をみて、あぁ、本当にお金がないわけではないのだなと解ったのは、自らに税金や保険料が降りかかる大人になってからのことだった。

 

子どもが想像する「お金がない」イメージというのは、大人が想像するそれより深刻である。

ちいさな私が絵本で見た「貧しい家」のシーンは、家族みんながツギハギの服を着て1つのパンをかじり、すきま風に凍えながら死んだ母の形見を泣く泣く売り、そして最後には雪に埋もれて生き絶える、といったものばかりだった。

祖母はお金がないと息を吐くように繰り返す。私たちも、もうすぐあの絵本のようになるのだ、と本気で思っていた。

それは、堅実な経済感覚を身につけるための教育だったのだと思う。

祖母は若い頃大変に苦労をして生きてきたから、私に、浪費して人にお金を借りるような人間にはなってほしくなかったのだ。

 

しかし、その言葉の反動なのか、それとも父の性格が遺伝してしまったのか、私は幼いうちからお金に対して見栄っ張りな性格であることを自覚せざるを得なかった。

とにかく「貧乏であることを知られてはならない」と考えるようになり、放課後に友だちと遊びに行けば、大して欲しくもない駄菓子を周りより多く買い込み、冬休み明けにお年玉の話になれば実際の金額よりも少し盛って発表していたと思う。

よく憶えているのは、中学生のころ友達数人と出かけたときのことだ。

ショッピングモールの中にある、少し大人びだレストランで、お小遣いを持ち寄って食事をしたあの日。

料理をひとつずつ頼んで、みんながお冷だけで辛抱しているなか、ひもじい客だと思われたくなかった私はただひとり、ジンジャエールを注文した。

乾杯の輪に混じる琥珀色のジンジャエールを見ながら、私は「これで貧乏だとは思われまい」と安心していたのだった。

それから両親が離婚をして、実際に家庭が困窮する反面、アルバイトである程度自由なお金が手に入った。肥大化するコンプレックスを歪に丸め込んで、私は成長していく。

 

母がなんとか絞り出してくれた受験料で、1校のみの大学受験チャンスをもらい、運よく都内の私立大学に入学することができた。

当然、学費は奨学金。

卒業後の返済を考えて全額は借りず、足りない分はアルバイトで賄うことになった。

精神的に大変な時期もあったが大学生活は本当に楽しく、知識も人付き合いも一気に広がった。

東京の私立大学であるうえ、もともと華族のために開かれた歴史もあるからなのか、大学には裕福な家庭で生まれた人間が多くいた。

アルバイトをせず学校生活に専念できる彼らが羨ましくて、私はなるべく彼らに溶け込めるように努めた。

サークルの後は決まって飲みに出て、近所の洒落たカフェでお茶をし、彼らとの優雅でアンニュイな時間に飲み込まれてアルバイトをサボったりすることもあった。

苦学生だと思われるのが恥ずかしかった。払うべき金はモラトリアムの中に溶けていった。

 

いよいよ学費の支払いが間に合わなくなって、それを家族に悟られまいと必死になった私の目に、隣駅の大きな学生ローンの看板が映る。

とりあえずあそこで借りよう。

ひとりで行くのは怖くて、中学校の同級生と待ち合わせをしてついて来てもらうことにした。電車を降りて駅を出る。

大きな黄色い看板がついた古いビルを見上げて、足がすくんだ。

本当にこれでいいのだろうか。

でも、全部自分が悪いのだから仕方ない。

もう、これしかないんだ。

逡巡する私を見て、同級生は私を諭すように言った。

 

やっぱりやめようよ。大丈夫だから、おばあちゃんに相談してみなよ。ね?

 

無理だよ。

だってうちにはお金がないんだから。

泣きそうになりながら首を横に振り続けるけた。

それでも同級生は私を説得してくれて、最後は半ば無理やり私に電話をかけさせた。

 

電話に出た祖母はいつも通り、私が何時に帰ってくるのか、夕飯はいるのかと聞いた。

私はビルを見上げながら震えた声で打ち明けた。

 

学校のお金が払えなくて、今、借りようと思ったんだけど、できなくて

 

話しながら涙が溢れてきた。

きっと怒られる。

 

祖母は、静かに

 

馬鹿だねぇ。今どこにいるの。帰っておいで。大丈夫だから。用意してやるから。

 

と言った。

 

情けなくて、申し訳なくて、絞り出すように「ありがとう」というのが精一杯だった。

 

祖母の助けで学費を払い、私は大学を卒業することができた。

祖母は「出世払いだよ。必ず返してもらう。」と言った。

 

祖母は相変わらず金に厳しく、無駄遣いを咎められた私は恩を忘れてたびたび癇癪を起こした。

言い訳をさせてほしい。

私だってそれなりに反省はしていて、高価なものをポンポンと買ったりはしない。

数年前にマックのポテトを買って食べていたら

金がないのにポテトなんか食うな」と言われ

私にはポテトを買う権利もないのかと」逆ギレし、ポテトを紙袋ごと壁に叩きつけてしまった。

ちゃんとあとから食べるつもりで紙袋に入れていたのに、ポテトは叩きつけられた衝撃で紙袋を突き破って無惨にも床に散らばった。

私は食べ物を粗末にした自分への怒りと、抑えられない衝動の情けなさで、子供のように泣きながらポテトを拾い集めた。

 

私は「ごめんなさい、ごめんなさい。お金の話になると頭が真っ白になっちゃうの。自分でどうしたらいいのかわからない。」と、祖母に助けを求めるように言った。

私だって治したい。

こんなふうに喧嘩なんてしたくないのだ。

アンタが金がない金がないって言って育てたからこんな性格になったんだ」と言いたいのを必死に飲み込んだ。

 

祖母のせいにしてはいけない。

全部自分が悪いんだから。

部屋に戻って拾ったポテトを泣きながら食べた。

おいしかった。

 

最近は少しずつお金を渡せるようになってきたが、祖母とはまだまだ揉めている。

なんせ伊藤家には正社員がひとりもいない。

祖父母は年金暮らし、母はパート、弟は留年し続けている。

現時点では私がいちばん高収入であるものの、全員を安心させられるほどの稼ぎには程遠い。

このあいだも整体に行くと言ったら案の定祖母に「無駄遣いだ」と言われて、肩こりと頭痛に目が回っていた私はもはや逆ギレする気力もなく「今頑張ってるところなのにぃ。同世代の正社員より稼いでいるのにぃ」とウジウジと泣いてしまった。

どのくらいあれば祖母は安心してくれるのか、この家はこの先どうなってしまうのか、お風呂の給湯器はいつ壊れるのか。

家の床の軋む部分を避けて歩きながら、不安ばかりがつきまとう。

 

唯一の救いがあるとすれば、それは最近になってやっと、人に「お金ないんだよね」と言えるようになったことである。

もう見栄を張って苦しまないように、コツコツとリハビリをしてきた。

同じくお金がない友達と「お金ないね〜」と笑い合えるようになった。

私にとっては大きな進歩だ。

ただ、先日SNSで「お金ない」と呟いたら多額の投げ銭が届いてしまい、金輪際、不特定多数に向けて言うのはやめようと誓った。

 

むやみに甘えず、堅実に手を汚した先に、きっとある程度の自由と祖母の満足、そして好きなだけポテトが食べられる未来がある。

そう信じて、仕事をしよう。

先日祖母が気に入っていたマグカップを割ってしまった。

悲しそうにしているのがいたたまれなくて、Amazonで買ったムーミンのマグカップをこっそりテーブルに置いておいた。

明け方にそれを見つけて、囁くように「わぁ、かわいい」と独り言を言う祖母をこっそり見守りながら、私はこう言うことに無駄遣いができるお金がほしいのだと思った。

値段を聞かれて、1000円くらいと言った。

アラビア製なので、本当は3000円した。

 

 

お金ない。お金ないね、ばあちゃん。

 

こんなんじゃ、心配でまだ死ねないじゃないか」とぼやく祖母に

結構なことですね」と返事をする。

 

<了>

今回の寄稿者さま

ペンネーム:伊藤亜和(いとうあわ)
プロフィール:モデル・文筆家

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